工務店 佐渡 takumi-2jamの日記

佐渡島で自然素材をふんだんに使った家づくりに取り組みながら、気ままに書き綴っています。

佐渡の木と共に

以下の文章は、県の林業関係者より依頼があり、父と共に原稿作成し、3月に提出したものですが、業界関係者だけに読んで頂くのも勿体無い気がして、公表する事にしました。

長文、御容赦ください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
佐渡の木と共に」
佐渡の木と共に60年。

昭和8年、佐渡の両津・湊の漁師町で、祖父が漁師、父が大工の元で私は生まれました。その後私は、14歳の頃から父の仕事に関心を持つようになり、新制中学も中途で父の元で修行する事になりました。当時は太平洋戦争も終わり、派兵されていた地元の人達も帰還、一次産業に従事し、地域も活気を取り戻してきた頃でした。
当時の佐渡の一次産業は島外交易も盛んで、海産物などの食料品をはじめ、木竹材、木炭、藁製品などが出荷されてゆきました。また木材では佐渡産の松の良材が、島外でも高い評価を得ていました。山では植林も始まり、常緑樹の緑と里山の豊かさがありました。思えばあの頃生まれた子供達が、いわゆる「団塊の世代」の人々です。
 ちょうどその頃、私が大工として木材の流通に関わるには、まず木材の樹種、用途、大きさ等を表した材料調書を、山師や木挽き職人に渡し、場合によっては山に入り資材を見つけ出す事も行ないました。
 山から木を運び出すのも、人力、馬力で平野部まで運び、仮設のベルト付き発動機で丸鋸を動かし木材を挽いていたのが昭和32年頃だったと思います。その後昭和40年代に入り、台車付き帯鋸機が導入され、順じ自動化され現在に至っています。
 また当時は木材の等級付けも、長尺材が主で、その他はあまり重視されていませんでしたし、島外材の使用は皆無でした。材料調達面でも需要より消費の方がやや多い程度でした。
 しかしその後国政は国外交易へと進み、東京オリンピックから大阪万博の頃にかけては、工業製品が飛躍的な発展をし、木材を含む国内の一次産業品は次第に衰弱していった様に、私は思います。
またその後の佐渡では、島外で評判の良かった佐渡の松も、松食い虫による大被害でほとんどが枯れてしまいました。

さて・・・佐渡の木材を取り巻く環境が変化するのと同じくして、私の携わる仕事の面でも大きな変化がありました。昭和40年代頃から工業製品が大量に出回ったのをきっかけに、無垢材の使用範囲が少なくなり、真壁より大壁、和風より洋風というように家屋のデザインや使用材料に変化が大きくあらわれました。ところが最近では、環境へ優しい家屋造りや古民家再生が注目され、木材と無垢の木材加工品、自然素材を多くの場所に使用した住宅は、お施主様からも大変良い評価と信頼を得るようになってきました。
 ただし時代は移り変わり、住宅建築でも性能評価を問われる様になってから、木材も含水率の少ない材料が義務付けられる世の中になり、外国産のKD材が広く出回る事で、国産材は、再び打撃を受ける事になりました。経済面で世界市場と競争が激化する中で、日本国の林業も岐路に立って久しいのです。

 唐突かもしれませんが、私は「人工乾燥した木材」について疑問に思う事があります。
それは木材を乾燥する際、化石燃料や電気を使っているからです。貴重な地球資源やエネルギーを大量消費してまで急激な木材乾燥を施すのは、将来を見据えた上で良い方法だと考え難いと思いますし、現在の乾燥木材の多くは、地球規模で今後とも取り組むCO2削減とは程遠い方法を選択している気がします。

さて、私は佐渡林業の将来に、期待しています。
ただ先述の様な時代の変化に伴い、佐渡林業は大きく方向転換する必要が有ると思います。佐渡林業に携わる多くの人々が、エンドユーザー(施主)の身になって考え始め、気付き、行動に移すことから佐渡産の木材は再び価値を見出すと思います。

 決して夢のような事ではなく、「(人工乾燥ではない)佐渡の豊かな自然の風で、乾燥した木材」をお客様に提供していただける様な取り組み、また佐渡の山に携わる仕事自体が環境保全につながる様な今後の取り組みに期待申し上げます。